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まず結果から のくせ

台所の方から
「ねぇえー、新鮮市場の近くにパン屋さんあったよねー」との妻の声に

何の話がしたいのか分からなくって、イラッ!とした後、
ちょっと反省した。

効率前提の会社では
メールでも口頭でも、報告・連絡するときに
何の件か、結論があればそこから始めるのがあたりまえ。

このくせは、家では止めて、切り替えなければ行けない。
でないと、「パン屋さんあったよねー」で、何の話か分からずにイラッとしてしまう。
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テーマ : ひとりごと
ジャンル : 日記

目方が減らないか心配

ヨーグルトが500gから450gに変わってしまったように

納豆が50gから45gやそれより少ない目方に変わってしまったように

消費税等が5%から8%次に10%に上がるとき

さらに物価上昇率2%が実現してしまうとき

目方を減らしやしないだろうか。

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

「友達」に慣れない今の私

Facebookで「友達」をつくると、
「友達」の言葉や
顔写真付きで、「知り合いかも」とか「友達になる」とか、
「友達」があふれてきます。

いままで友だちのすくない状況で
静かに非社交的に生きてきたさんじのぱぱにとって、
Facebookの動作は強烈なショックです。

ともだちのともだちはともだちだ。
「友達」って、ネット上のデータベースの”リンク”だけれど、
本名というところが刺激的すぎて、
今のさんじのぱぱには、慣れがたいです。

社交性が試される「場」に感じました。
気軽にスイスイ友達の間を渡り歩ける人には、
楽しくてしょうがないのだろうと想像します。

いちいち考えてしまうさんじのぱぱにとっては
「友達」の言葉の使いすぎに戸惑ってしまいます。

Facebookで味わったショックを
ブログに書き表して心を静めている今の状況は
ちょっと前の私には想像もつかない行為です。

リアルの世界では、友だちの関係は簡単には築けないはず。
でも、Facebookではクリック一つで「友達」を検索できて
同意すれば簡単に結びつけられてしまうことに、
リアルとのギャップを感じているからショックが大きいのです。

ちょっと自分を取り戻して使い用を考えてから、再度Facebookを開いてみます。
なにしろ本名なので、このブログのように気ままに(無責任という意味ではありません)書きにくいです。
リアルの社会では、会社・趣味の世界・親戚など、複数の異なるつきあいがありますが、
Facebookは(未だ使い方を知らないだけかもしれませんが)すべて一緒くたに
「友達」として括られてしまうように見えます。
会社で会う人がFacebookで「友達」になると、
私のプライベートでの付き合いでFacebookとやりとりしていることを
見ることができてしまうのでしょうか。
相手にどのように見えているのか知らずに書き込みをするのは怖いので、
最初のうちはおそるおそる使うことになりそうです。
なんだか疲れてしまいそうです。
考えすぎでしょうか。

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

”誤って--してしまった”と書いて済むのか「障害報告書」

先週は、会社で「障害報告書」や「顛末書」の確認する機会がなぜか多かった。

特に「障害報告書」で、”誤って--してしまった”という記述があり、掘り下げの足りない浅い甘い報告だったので、思わず「気づき」として同じ部署の関係者にメールした。

原因究明の程度と再発防止策の効果は比例する。

ずばり効く再発防止策を考え出すには、なぜそうなったかを知る必要がある。
前に読んだなぜなぜ分析の要領です。

ところが、”誤って--してしまった”では、なぜ間違えたのかの理由が書かれていない。

○○を根拠に判断したので間違えてしまった と、間違えて判断をした理由まで掘り下げないと、何が悪かったのか特定できない。
何が悪かったのか分からないままで、どうして再発防止策を立てられるのか?
こんな障害報告書に書かれている再発防止策に、果たして効き目があるのか?
と、メールしたのです。

なぜ”誤った”のだろうか?
誰かの思いつきの根拠薄弱な言葉に左右されたとか、
手順書が違っていたとか、
たまたま朝食べた怪しいおかずでおなかが痛くなり注意が散漫していて手順をすっ飛ばし、ダブルチェックの確認者も見ないでOKする習慣になっていたなど。(この場合見ないでOKする習慣の方も、なぜ見ないで済ましてきたのかの原因究明が必要だね)

こんな状況の時、「内田樹の研究室」2012/10/5「「En Rich」のロングインタビュー」を読み、責任をとることについての考え方に、そうだよねーと共感したのです。
印象的なフレーズを引用しました。
・嵐が過ぎるのを首をすくめて堪え忍ぶという生き方が日本社会に行き渡っている。「何もしない」というのがもっとも合理的な選択だと思われている。
・責任というのは本来予防的な概念なんです。
・競争相手がいるとしたら、それは「昨日の自分」です。
・学校は本来欲望を更新するための場所です。学校に入学するときは、そこで卒業するまでに何を学ぶことになるのかわからない。自分がそんなことを学ぶと思ってもいなかったことを学んで別人になることが教育なんです。

前に戻って、
どうして”誤って--してしまった”の記述で良しとした「障害報告書」が成立したのだろうと考えた。
そこには、意図的にそう書いた、そう書かざるを得ない裏事情があるとしか思えないと感じた。
「実社会では、だいたいそんなもんでしょう」と、多くのサラリーマンが言うと思う。
たとえば、手順書が無かったが、それを書くと他の手順も含めて大量の手順書を作成することになり大変だと思ってしまったとか(これが必要な部分だと判断できる人がいてその分だけ手順書を書けば良いのですが)
たまたま設計書が更新されていなくて、古い情報で判断したので間違えたと書くと、他の設計書も更新しているか否かをチェックして古い部分は更新しなければならないという気の遠くなる作業をイメージしてしまったとか。
だから、”誤って”とお茶を濁しておいて、納得してもらえそうで且つそこそこの作業量で片付けられるような、とりつくろいの再発防止策にしたかったのでは。
要するに、「責任をとろう」と言うひとがいないんです。嵐が過ぎ去るのを身をすくめて待って時間に任せたいのです。
いちいち、ちゃんとやっていたら、時間が足りないし、割に合わないし(給料に見合わないし)、面倒くさいし、他に期限が迫っていて成績・評価に直接影響しそうなことを済まさないといけないしなど、本音があるんでしょう。重要度に応じて、適当に済まさないとやってられないだろうし。
でも、その「重要度」は、何に対して重要だと思ったのでしょう。大事だと思った判断基準は間違っていないでしょうか。正解は無いでしょうが、そもそもの目的に沿う、より確からしい判断なのでしょうか。

年をとったせいか、最近ゆっくりじっくり考えない(考える時間を作れないのか、よく考えることは誰でも苦手で苦しいのですが、それをする人が少ないのか)、そういう文章に気づくことが(会社の中で)多いです。
あんまり書くと、非道い会社だなと誤解されてしまうし、さんじのぱぱ自身が人のことを言うほどよく考えていないことが多いので、止めておきます。

テーマ : 仕事日記
ジャンル : 就職・お仕事

プールの光景か

さんじのぱぱは、上尾市の団地に中学生まで住んでいました。
小学生の頃、夏休みには、7つのプールで有名だった上尾の水上公園に、同じ団地の棟の毎日遊んでいる友だち(ときどき父と)自転車で遊びに行きました。
今から35年以上前のことです。
母はあまり行きたがらず、たぶん1回だけ家族4人で数少ないバスの便を利用していったかもしれません。

その頃のプールの光景しか頭にイメージしていなかったので、昨日9月1日(土)に、越谷のしらこばと水上公園に家族で電車とバスを乗り継いで見たプールの光景は、異様でした。
プールのテント


プールサイドがさっと開くテントで埋め尽くされていたのです。

当然の帰結でしょうが、もしかしたら海でも同じような光景なのでしょうか。

強い日差しを避けてごろっと寝っ転がりたい大人にとっては、お手軽テントが一番でしょう。
テントの中で好きなように過ごせます。
ビールとつまみで一杯やっていたり、ゲーム機やスマホをいじっている人も多いかもしれません。
avecはいちゃつくでしょう。
自分たちの部屋を、車を介してプールサイドまで持ってきたのです。
誰からも邪魔されない自分の空間を設営できたのです。
プライベート空間の縄張り争いです。

35年前の水上公園は、ビニールシート(レジャーシート)を敷く家族すら珍しかったように思えます。
家族がどうやってお昼を食べたりしていたか思い出せませんが、場所取りをした記憶はありません。
日陰を探しておにぎりをサット出し、適当に座って食べていたのかもしれません。
家族がピクニックのように長時間陣取ることは無かったと思います。
そもそも、テントが無いから暑いし。

運動会で家族が敷物を敷くのは、そういう場所として用意されているから違和感はありません。
去年の幼稚園の運動会では、幼稚園が用意したトラック脇の観覧席のさらに外側である校庭の隅の方では、テントやパラソル付のテーブルと椅子のセットを持ち込む家族がいました。
最初に見たときは驚きと、なるほどそうかもしれないなという印象でした。

プールサイドもそのために用意された場所だと思ってしまえば、違和感が無いのでしょう。

さんじのぱぱにとって、公共の場が私的空間に変わる最初の衝撃は、ウォークマンでした。
30年前の高校一年生の夏休み直前に、後ろの席の医者の息子が初代ウォークマンを学校に持ってきて休み時間に松田聖子を聞いていたのです。
聞かせてもらったときに、自分の好きな音楽を聴けて目を閉じれば、教室の場であっても、自分の頭と体の周囲はプライベート空間に早変わりです。自分の部屋で深夜ラジオを聞いているときのような空間が歩いていても電車の中でも作れるのです。持ち歩きです。ちょっと前は教室だったのに瞬時に自分の空間に変えられることは、今でも会社の昼休みに好きな音楽をイヤホンで聴くと感じるのとおなじで、場の急な変化のとまどいに繋がります。

プールサイドまで持ち込まれるとなると、プライベート空間にできない場所にいることに、ストレスを感じる人が出てきそうです。
プライベート空間の仕切りの向こう側をきれいに無視することでリラックスする人が増えているように感じるのも合点がゆきます。
電車内で化粧をしたり、ぎゅうぎゅう詰めの車内なのに自分の前をゲーム機を持つ場所をしっかり確保してイヤホンをしてゲームをしていたり、同じような格好でテレビや映画を見ていたり。(さんじのぱぱは、のぞき見たのではなくはなく、見えてしまったのです)

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

プロフィール
・思うこと、こころ動かされたこと。
・そもそも、あたりまえのこと
 を考えながら書いてゆきます。

さんじのぱぱ

Author:さんじのぱぱ

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